「藤井聡太って、結局どれくらいすごいの?」
すべては、この素朴すぎる疑問から始まった。
ニュースをつければ毎日のように彼の記録更新が報じられ、社会現象になっている。すごい人なのは間違いなさそうだが、将棋に詳しくない身からすると、その「すごさのスケール」がいまいちピンとこない。
気になって少し調べてみると、彼は将棋界にある8つのタイトルをすべて同時に独占する「八冠制覇」という前人未到の偉業を成し遂げていた。
……あれ? ちょっと待てよ。
「え? 羽生善治さんも、昔すべてのタイトルを独占してなかったっけ?」
ここで最初の引っかかりが生まれた。
調べてみると、天才・羽生善治が1996年に達成したのは「七冠独占」。当時はタイトルが7つしかなく、そのすべてを制覇した文字通りの偉業だった。
しかしその後、2017年に「叡王戦」というタイトルが新しく加わり、将棋界は全8タイトル時代に突入する。
要するに、ただでさえ「今後二度と現れないだろう」と言われていた全冠制覇のハードルがさらに1段階上がった状態で、藤井聡太はすべての頂点を単独で制圧してしまったのだ。しかも21歳という若さで。
なるほど、歴史的なとんでもなさだけは分かった。
だが、ここでさらなる疑問が湧いてくる。
「そもそも将棋って、そんなに極めるのが難しいゲームなの? 一体ぜんたい、何通りの手があるんだ?」
サイコロのような「運」の要素が一切なく、お互いの持ち駒も盤面もすべて丸見え。
数学の世界では、こういうゲームを「有限確定完全情報ゲーム」と呼ぶらしい。「有限」なのだから、最新のAIやスパコンを使えば、もう全部のパターンを計算し尽くせてもおかしくないんじゃないか?
そう思って将棋の「全手順の数」を調べてみたのだが――そこには、物理的な宇宙の限界すら軽く吹き飛ばす、とんでもない「数字の暴力」が待っていた。
登場、「素粒子メジャー」! 宇宙のすべてを物差しにする
将棋の手数がどれくらいヤバいのかを測るには、普通の数字では桁が大きすぎて脳が理解を拒否する。そこで今回は、「この宇宙に存在するすべての素粒子の数」をメジャー(物差し)として持ち出すことにした。
私たちが観測できるこの広大な宇宙にある銀河、恒星、惑星、そして私たちの体や空気を作っている原子。それらをさらに最小単位までバラバラにした「素粒子」の総数は、物理学の推計で約 1080 個(1の後ろに0が80個並ぶ数)と言われている。
ちなみに、地球上の砂浜の砂粒を全部集めても 1020 個程度らしい。
……と、こう書くと「え? 1020 と 1080 なら、砂粒の4倍くらいってこと? なんか近そうじゃん」と思ってしまわないだろうか。(正直に言うと、私は最初そう思った)。
しかし、ここが「10の〇乗」という数字の恐ろしい罠だ。
たとえば、お金で考えてみよう。104 円は「1万円」だが、108 円は「2万円」ではなく「1億円(1万倍)」になる。右上の小さな数字は「後ろに並ぶゼロの数」を表しているので、1増えるごとに数は10倍に膨れ上がるのだ。
つまり、1020(地球の全砂粒)と 1080(宇宙の全素粒子)の差は、4倍どころの話ではない。
「地球上の砂粒たった1粒の中に、もうひとつ地球を丸ごと押し込んで、その中の砂粒を全部数える」というマトリョーシカみたいな作業を4回繰り返して、ようやく追いつくレベル(1060倍)の絶望的な差があるのだ。
まさに 1080 というのは、文字通り「この物理宇宙のすべて」を表す究極の数字なのである。
よし、この「宇宙の全素粒子(1080)」を基準のメジャーにして、世の中の代表的な完全情報ゲーム(ボードゲーム)がどれくらいの広さなのか、片っ端から格付けしてみようじゃないか。
宇宙の素粒子をメジャーにした「完全情報ゲーム」格付け
さっそく、身近なゲームから順番にメジャーを当てていく。
| ゲーム名 | 全手順の総数(概算) | 宇宙の素粒子(1080)との比較 | 格付けランク |
|---|---|---|---|
| 〇×ゲーム(三目並べ) | 約 105 通り(約25万) | 砂粒どころか目視できるレベル | 【日常級】 完全に解析済み(引き分け) |
| オセロ(8×8盤) | 約 1058 通り | 宇宙の素粒子より22桁少ない | 【銀河級】 2023年に弱解決(引き分け) |
| 五目並べ(15×15盤) | 約 1070 通り | 宇宙の素粒子にあと一歩届かず | 【亜宇宙級】 解析済み(先手必勝) |
| (基準)宇宙の素粒子 | 約 1080 個 | ―― ここが物理宇宙の壁 ―― | 【宇宙の限界】 |
| チェス | 約 10123 通り | 素粒子1個につき、さらに 1043 個の世界 | 【超宇宙級】 シャノン数として有名 |
| 将棋 | 約 10226 通り | 素粒子を全部メモリにしても記録不能 | 【異次元級】 持ち駒再利用で爆発 |
| 軍儀 | 約 10300〜10350 通り | 将棋をさらに100桁以上突き放す領域 | 【超次元級】 初期配置と立体化で爆発 |
| 囲碁(19路盤) | 約 10360 通り | 宇宙の4乗以上の桁数 | 【深淵(アビス)】 事実上の無限 |
※注:オセロより五目並べのほうが手数が多いのに早く解析されたのは、五目並べのほうが「5つ並べば即終了」という性質上、途中で枝葉を切り捨てやすいため。
……どうだろうか。チェスを超えたあたりから、「有限」という言葉の意味が完全に崩壊しているのがわかるだろうか。
なぜ将棋(10226)はチェス(10123)より100桁も広いのか?
チェスも将棋も、相手の王様(キング・玉)を詰ませるよく似たゲームに見える。しかし、全手順の数には「100桁」というとてつもない差がある。(先ほどの砂粒と宇宙の差が「60桁」だったことを思い出してほしい。それ以上の差がここにある)。
この爆発的な差を生んでいる最大の原因が、将棋特有の「取った駒を自分の持ち駒として、盤上のどこにでも再利用できる」というルールにある。
チェスは駒が減るにつれて選択肢がどんどん減っていく「収束するゲーム」なのに対し、将棋は中盤から終盤にかけて、持ち駒が増えることで逆に選択肢が爆発的に増えていく。
もし、この宇宙にある素粒子(1080個)をすべて超高性能なハードディスクのメモリに変換して、素粒子1個につき1通りの手順を記録させたとしよう。
それでも、将棋の全手順(10226通り)を記録するには、この宇宙があと 10146 個も必要になる。
つまり、将棋が「有限のゲーム」というのはあくまで数学上の定義であって、私たちが生きるこの物理宇宙のスケールにおいては、「事実上の無限」として存在しているのだ。
藤井聡太は「10226 の深海」をどう潜っているのか?
さて、ここで最初の疑問に戻ろう。
「藤井聡太って、どれくらいすごいの?」
将棋の盤面が「宇宙の素粒子数をはるかに超える深海」だとしたら、その頂点に君臨する藤井聡太の頭の中は一体どうなっているのだろうか?
よく「藤井聡太は1秒間に何億手も読むAIを超えた」といった表現を耳にするが、人間の脳の構造上、コンピュータのように何億通りもの枝葉をシラミ潰しに計算(探索)するなんてことはできない。
プロ棋士が実際に頭の中で具体的に検証している手順は、対数のスケールで見れば「数千〜数万手(103 〜 104)」程度の、極めて小さな領域に過ぎないと言われている。
ではなぜ、たった数千手の探索で、1050 や 10100 といった深海に眠る「たったひとつの正解」を正確に引きずり出せるのか?
「枝刈り」の精度が異次元すぎる
将棋の1手あたりの平均的な選択肢(合法手)は約80通りある。
普通に3手先を読めば 80 × 80 × 80 = 51万2,000通り。10手先なら約 1019 通り(地球の砂粒レベル!)になり、あっという間に人間の脳はパンクする。
しかし、トップ棋士の脳内では、盤面を見た瞬間に「直感(大局観)」という名の超高性能フィルターが作動し、80通りのうち77〜78通りの「ダメな手(筋が悪い手)」を瞬時に切り捨てている。これを「枝刈り」と呼ぶ。
- 一般のプレイヤー: 広い海を網で手当たり次第にすくおうとして、すぐ溺れる
- AI(将棋ソフト): 圧倒的な計算速度という名の潜水艦で、深海を高速スキャンする
- 藤井聡太: 最初から「正解が眠っているピンポイントの座標」だけを見抜き、一本の鋭いモリで深海数十メートル先を一撃で貫く
彼が強すぎる理由は、横に広く読んでいるからではない。不要な選択肢を極限まで削ぎ落とすことで、人間が到達できる限界の「深さ(手数)」へと脳のリソースを全振りしているからなのだ。
さらに恐ろしいのは、他のトッププロたちが「ここはダメな手だ」と無意識に枝刈りして捨ててしまった暗闇の中に、実は1本だけ繋がっている「奇跡の細い道」を、彼だけは切り捨てずに見つけ出してしまうことにある。
まとめ:9×9の盤上に広がる、宇宙より広い小宇宙
「藤井聡太ってすごいの?」という軽い疑問から掘り始めてみたら、まさか宇宙の素粒子の数まで引っ張り出すことになるとは思わなかった。
たった「縦9マス×横9マス」の木の板の上。
そこに広がっているのは、この宇宙のすべての素粒子を集めても到底太刀打ちできない、10226 という果てしない深淵だった。
そして、そんな「事実上の無限」を前にして、たった1.4キログラムの脳みそひとつで深海の底まで潜り、AIすら驚くような美しい正解を拾い上げてくる人間がいる。それが藤井聡太という棋士だったのだ。
次にニュースで将棋の対局を見る時は、ただ駒が動いているだけでなく、その裏で「宇宙の素粒子数を超えるパターンが激突し、削ぎ落とされている」と想像してみてほしい。きっと、棋士たちが長考している時の「沈黙」の意味が、まったく違って見えてくるはずだ。
とりあえず、長年の疑問が宇宙規模でスッキリしたので、今日のところはぐっすり眠れそうである。
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